
脳腫瘍(しゅよう)と闘いながら、絵の才能を開花させた鹿児島市立松原小6年本田紘輝君(12)=同市小松原=が昨年暮れ、亡くなった。
激しい痛みと抗がん剤の副作用に耐え続けて、コンピューターグラフィックス(CG)で明るく力あふれる作品を仕上げ、「負ケテタマルカ!!」など多くの受賞作を残した本田君。 闘病を励ましてきた同級生は、最後まで生きることをあきらめなかった友の頑張りを「決して忘れない」と誓い合っている。
本田君は3年生の時に脳腫瘍と診断され、手術を受けた。同市立病院で療養しながら、同小の院内学級でCGを使った絵画制作を開始。水を使えない無菌室での作業で、鮮やかに描けるペン型のポスターカラーで原画を作製。その画像をパソコンに取り込み、絵画ソフトを使って色づけなどの補正を行った。
治療の合間を縫っての作業は、1枚完成させるのに1か月ほどを要した。
作品は小学生には珍しい抽象画。指導した竹下長治教諭(51)は「力強く、明るい色で描かれ、絵の先には強く生きたいという願いが見えた」と話す。
エネルギーあふれる作風は高く評価され、大人たちの一般作品にまじって鹿児島CGコンテスト(県デジタルコンテンツ高度化協議会、鹿児島市主催)でグランプリを受賞するなど、県内外のコンテストで入賞。昨夏、市内の美術館で約30点を集めた個展も開いた。
本校の運動会や宿泊合宿にも参加していたが、6年生になってからは病状が悪化してベッドでの生活が続いた。
同級生たちは励ましの声をテープに録音して届ける一方、昨年12月には約40人が分担してフルマラソン(42・195キロ)に挑戦。完走を目指して、最後の1メートルのアンカーを本田君に託すことを決めた。
同月4日、山本原暉(もとき)君(11)が代表として病床を訪問。
バトンを手渡して「必ず元気に戻ってきてね」と呼びかけたが、その願いはかなわず、同28日未明、両親が見守る中、眠るようにして息を引き取った。
一人息子を失った父信作さん(40)は「抗がん剤の投与を限界まで受けたが、『まだやるよ』と訴えるなど命の限り闘った。まだまだ生きたかったと思う」と振り返る。
松原小(児童数275人)は8日の始業式で、全児童がその死を悼んで黙とうした。
山本君は「一緒に卒業できなくて残念だけど、いつまでも心の友達」と話し、松藤仁君(12)は「一生懸命、病気と闘った本田君の気持ちを絶対に忘れない」と決意を示した。
読売新聞九州版:http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/ne_08011251.htm(該当記事は既に削除)
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アルツハイマー病を患った画家の絵の変遷
http://10e.org/mt2/archives/200610/280214.php【関連記事】
寿志郎 口で絵を描く芸術家

手を使えないため、口を使って絵を描かれている芸術家さんです。色々と自分自身についても考えさせられます。

絶妙なバランスで石を積む芸術家。大きさや形関係なく積んでいます。
崩れないのが不思議で仕方ありません。

1978年、『週刊少年ジャンプ』(集英社)に掲載の『ワンダー・アイランド』でデビュー。 スクリーントーンをほとんどつかわない独特の画風、透明かつ爽快感溢れる独特の色彩、アメコミタッチでもあり、日本的でもあるその作風には世界中に多くのファンがいる。週刊連載の時にもほとんど原稿を落とさない。名古屋でサラリーマンを経験している彼は、社会人は時間を守って当然というポリシーがあるらしく、それが締切を守る理由だという(ただしサラリーマン時には遅刻することがよくあったらしい。)さらには、初代担当の鳥嶋和彦に「もし原稿を落としたら上京してもらう」と言われていたため、上京したくない一心で原稿を仕上げたとの発言もある。
また、『週刊少年ジャンプ』に創刊時から関わり、1979年〜86年にジャンプ編集長を務め、後のジャンプ黄金時代の足掛かりを築いた元週刊少年ジャンプ編集長・西村繁男は、自らの著書の中で、「『少年ジャンプの六百万部の快挙は、鳥山明の破壊的なパワーを借りて初めて実現しえたことは、誰も否定できないだろう」と述懐している。
『Dr.スランプ』、『ドラゴンボール』の二作品は、国民的大ヒット作とも称されるほどの人気を博した。『Dr.スランプ』はアニメ化されて最高視聴率36.9%を記録し、社会現象を巻き起こした。『ドラゴンボール』はメディアミックス路線でも大成功を収め、多数のテレビゲーム、キャラクターグッズになった。1981年から1999年までは作品は違うがフジテレビ系列で毎週水曜19:00〜19:30は鳥山明の作品が放映されていた。
『ドラゴンボール』の人気は世界に拡大し、アメリカではLycosの検索ランキングで1位になったこともある(アジアや欧米だけでなく、モロッコなどイスラム圏の国でも人気がある)。世界的な知名度を誇り、特にフランスではTV放映時の最高視聴率が70%を超えたり、在仏日本大使館が毎年行っている「フランスで最も有名な日本人は誰か」という調査では、ここ数年鳥山明がトップを維持している。
『ドラゴンボール』終了以降は、長期連載でかなり大変な思いをしたことによって、漫画家としては『週刊少年ジャンプ』などジャンプ系列誌で読み切り、もしくは短期集中連載作品を描く程度であり、漫画家としては事実上セミリタイヤ状態と言われる事もある。ただし、実際には現在でもゲームのデザインや原作者としての版権管理などの仕事があるため、純然たる漫画家としての活動はともかく、仕事については『ドラゴンボール』連載当時ほどではないがリタイヤという言葉とは程遠い状況である。
『ドラゴンボール』終了以降に描いた主な作品は『COWA!』、『カジカ』、『SAND LAND』(いずれも週刊少年ジャンプで短期集中連載として掲載された)、『ネコマジン』(短編)、『天使のトッチオ』(絵本)など。その中でも『SAND LAND』と『ネコマジン』は人気を得、『SAND LAND』は北米、ドイツ、フランスそのほかの地域でも多数翻訳出版され、『ネコマジン』もシリーズ化した。

鳥嶋和彦によると、家は貧しかったが、両親共にのんびり屋の性格で、夕食を食べる金がないからと代わりに二人でワルツを踊るような人だったという。そして子供時代の鳥山は、腹を空かせながら漫画を描くのを唯一の楽しみにしていたという。
朝早く起きるのが辛いという理由で、高校卒業後に3年勤めた会社を退職した鳥山は、しばらくの間毎日気ままに暮らしていたが、その後当然の如くお金に困るようになる。そんな時、たまたま手に取った『週刊少年マガジン』で、新人賞への応募作品を募集している記事を見つける。賞を取れば賞金50万円が手に入ることを知り、一念発起した彼は、賞金のために23歳にして初めて本格的に漫画を描き始める。だが、結局『マガジン』の締め切りには間に合わず、月一ではなく毎週作品を募集していた『週刊少年ジャンプ』に作品を投稿するようになる。
その鳥山の作品に目を付けたのが、後に鳥山の担当編集者となる鳥嶋和彦であった。鳥嶋は、鳥山が作中の描き文字(擬音、擬態語など、写植以外の文字のこと)をカタカナでなくアルファベットで描いていることにセンスを感じ「今は下手だが頑張れば何とかなるかも」と鳥山にアドバイスをした。鳥山は容赦なくボツを出しまくる鳥嶋の元で懸命に修行し、漫画家としての技量を磨いていった(この時期、一年間のボツ原稿の総数は500ページ近くに達した)。その間、いくつかの短編を『週刊少年ジャンプ』やその他関連誌で発表し、その後『Dr.スランプ』で『週刊少年ジャンプ』に連載デビュー。また当初は本名ではなく、水田二期作(みずたにきさく)というペンネームにしようとも考えたが、結局本名でデビューした。
■引用元
U's Blog: 鳥山明
http://sogoodblog.blogspot.com/2006/12/blog-post.html【関連記事】
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